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Birminghamcrisis

Birminghamcrisis

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タイトル








2021年、コロナ禍の続くセント・アンドリュース・トリリオントロフィーアジア・スタジアムに、カットボードが侘しく佇む。
そこにファンはいない。そこには信頼関係もない。

10年前、1875年から紡がれる歴史の中でも史上最高の瞬間を経験した彼らは、今や空中分解寸前の状態に陥っている。遥か極東の地から空輸された混乱とアンプロフェッショナリズムは、バーミンガムの地に根付く青く偉大な文化に、史上最大の汚点を現在形で残し続けている。

20/21シーズン、過去8年間で6度目となる残留争いの救世主となったのは、クラブの危機に舞い戻った10年前のヒーローだった。
その男、リー・ボウヤーの存在は、荒廃したクラブ内部とファンベースとの関係に一筋の光をもたらした。

しかし、それがなかったとすれば…。


今ここに書き記すのは、一つの偉大なフットボールクラブとその転落の物語。

どうかいつの日か、今過ごすこの日常を過去の笑い話として語れる日が訪れるように。
そんな特別な願いを込めて。
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2011年、転落の始まり

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その日、聖地ウェンブリーに姿を現したアーセナルの選手たちは、揃いも揃って格式高いスーツに身を包んでいた。
彼らの頭の中は、試合後の優勝チームインタビューのことで埋め尽くされているように見えた。

時のバーミンガム主将、スティーヴン・カーは、胸の奥から湧き出る闘志の鼓動を感じた。
アーセナルはその年2度の対戦でいずれもバーミンガムを寄せ付けず、当時首位のマンチェスターUからわずか4ポイント差の2位。誰もが勝敗予想を時間の無駄と切り捨てた。

「おい、連中は今日スーツでここに来やがった。奴らは散歩にでも来たつもりだぞ」

ドレッシングルームでのカーの言葉に、バーミンガムの選手たちは一人残らず燃え上がった。


2011年2月27日、10/11シーズンのカーリングカップ決勝戦。146年の歴史を持つバーミンガム・シティが、史上最高の興奮をその身に刻んだ日。

進むべき道は決まっていた。開始1分からベン・フォスターはボールをひたすらに高く蹴り上げた。

201cmのニコラ・ジギッチのヘッドが先制点を生んだ。同点に追い付いたアーセナルは幾度となく持ち味のパスワークを披露し、フォスターが守るゴールに迫った。耐え凌いだ。

89分、勝利の女神がそのエフォートに微笑む。1月にルビン・カザンからローンで加入したオバフェミ・マルティンスは、彼のキャリア史上最も簡単で、最も重要な一撃を、無人のゴールに流し込んだ。


アーセナル 1-2 バーミンガム。
1963年以来48年ぶり、クラブ史上2つ目となるメジャータイトル獲得だった。


その日を境に、彼らの運命は変わった。
多くのファンが思い描いていた未来は、訪れなかった。







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決勝戦の夜、そこには疲弊しきった選手たちがいた。クラブは彼らが楽しみにしていたアフターパーティーをセッティングしていなかった。
仕方なく自ら飲みに出ても、もはや酒を飲む気力すらなく、空になったグラスはせいぜい1~2杯だった。

ファンと共に喜びを分かち合うオープントップバスでのパレードは行われなかった。喜びのあまり彼らが暴徒化することを恐れ、市議会が市街地の貸し出しを認めなかった。

彼らは優勝の歓喜を一晩で忘れ、すぐさま残留争いの現実に向き合うことを余儀なくされた。


「トライしていなかったわけではなく、単純に余力がなかったんです。毎週どんな試合であっても、全ての選手がこのディヴィジョンで戦うだけの状態で臨まなければいけません。それができなければ、当然負けがかさんでいくだけですよ」


当時を振り返るリー・ボウヤーの言葉を裏付けるのは、3月以降続出した多数の怪我人だ。
決勝で得点したジギッチとマルティンスは、その後それぞれ2試合にしか出ることができなかった。前線のオプションは実質キャメロン・ジェローム1人に絞られ、そのジェロームは11月9日以降得点のないままシーズンを終えた。

アレクサンドル・フレブデイヴィッド・ベントリーの才能溢れる新戦力2人は、前年勤勉さを武器にプレミアリーグ9位に躍進したチームにとって、そのアイデンティティを見失わせる引き金でしかなかった。

リアム・リッジウェルクレイグ・ガードナーの中心選手2人は、双方が最後の4試合で前半での退場処分を受け、最悪のタイミングでフォーメーションに大きな穴を空けた。


以前トッテナムに在籍していたキャプテンのカーにとっては残酷なことに、最終戦の舞台はホワイト・ハート・レインだった。

87分にウォルヴズのスティーヴン・ハントが起死回生の一撃を叩き込むまで、バーミンガムは残留圏にいた。ウォルヴズ逆転の報が入り攻勢に出た彼らにとどめを刺したのは、皮肉にも夏に獲得に動いていたロマン・パヴリュチェンコだった。
最後の6試合で獲得したのはわずか1ポイント。降格は必然の成り行きでしかなかった。


「キャリア最悪の日でした。よりにもよって古巣のトッテナムでそれが起きたんですから。 “How!?” という気持ちにしかなりませんでした。でも時として、フットボールはそういうことを起こすんですよね」スティーヴン・カー


1月にライバルのアストンヴィラから加わったカーティス・デイヴィスは、トッテナム戦で出色のパフォーマンスを見せ、監督のアレックス・マクリーシュから名指しでの称賛を受けた。
負傷からの回復途上、出場機会を求めて移籍してきた彼は、コンディションを早々に戻しながらもベンチを暖める日々が続いていた。


「彼はスパーズ戦の出来を褒めてくれて、プレミアリーグに戻るために来シーズンは君の力が必要だと言ってきました。すぐに『今シーズン必要だったはずですけどね!』と言いましたよ。もちろん僕だけの力でチームを降格から救えたとは思いません。でもすぐ力になるために契約したわけですし、チャンス自体はもっと与えられるべきだったと思いますから」


実際のところ、翌11/12シーズンもチームに残留したデイヴィスとは対照的に、チームを去ったのはマクリーシュの方だった。


「(リーグカップ優勝と引き換えにそのシーズンの残留を得られていたとしたら、と聞かれ)私ならそれを選びますよ。ただそれでも、長期的な視点からすれば、その後10年を見渡せるようなチーム作りをすることが可能だったとは思えないですけどね」


彼の残留を望んでいたボードの希望とは裏腹に、マクリーシュは自身の目の届かないところで行われるチーム編成に嫌気が差していた。自ら辞表を提出した彼の判断自体には、ファンも同情の眼差しを向けた。

しかしその直後に彼が選んだのは、紛れもなく最悪の選択肢だった。


「子どものときはどちらのサポーターでもありませんでしたから、アストンヴィラはビッグクラブだという印象だけがあり、その後のキャリアのことを考えての判断でした。正直なところ、そういったライバルリーが存在するのはレンジャーズとセルティックの間柄だけだと思っていましたから…」


ヴィラの監督として以前のような熱意も情熱も感じることができなかったというマクリーシュは、未だに「ブルーズへの特別な感情」を常に持ち合わせているという。


「強いバーミンガムはプレミアリーグに必要不可欠なチームです。いつか復帰を果たす日が訪れてほしいものですよ」
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2014年、香港にて

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時のオーナー、カーソン・ユンがマネーロンダリングの罪で懲役6年の実刑判決を言い渡されたその瞬間、ブロガーのダニエル・アイヴリーは「アンビバレンス」を感じていた。

それまで単なるパートタイム労働者だった彼は、プレミアリーグ降格後に持ち上がったユンのマネーロンダリング疑惑とそれに伴うクラブの財政悪化に危機感を覚え、イギリスと香港を行き来し事件の最新情報をファンに届ける情報源となっていた。

「正義とはかけ離れた何かが起こっていることは明らかでしたし、それはお金の問題であることも確かでした。『この人は見せかけほど金持ちではないぞ』と確信していました」


ユンは香港中の富豪をクライアントに持つ美容師で、株取引やメインランドでの美容サロン・ギャンブル企業運営により多額の富を得たと主張していた。
アイヴリーは手始めに、情報収集を行うために現地香港の報道をGoogle翻訳を使って読み漁り、同時に会計の勉強を始めた。


「言葉と文化の違いが最大の障壁でした。今では少し中国語を喋れるようにさえなりましたし、その勉強抜きに事態を把握することはできませんでした」

「記事が注目を集めるにつれ、様々な連絡が来るようになりました。あるユンの裁判の前、クラブ内の不満を持ったダイレクターから電話があり、香港に行くための費用を援助してくれたこともあったほどです」

「多くの人々が彼がなぜ逮捕されたのか、何が裁判の争点なのかを理解できていませんでしたから、私が実際に現地に赴き法曹関係の人々、会計士、メディアと話すことによって、そこで聞いたことをファンに説明することができました。最終的にユン本人に会うこともできました。彼は何とも愛想が良く、フレンドリーな人物でしたね」


有罪判決を受けた後もユンはクラブ内での地位に留まり続けた。

必然的に資金繰りはストップし、12/13シーズンから指揮を執っていたリー・クラークは、靴ひも程度の予算による戦いを強いられることになる。
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この頃香港市場での知見を買われ、バンカーのパノス・パヴラキスがCEOに任命された。彼はその後3年間に渡り、クラブの財政健全化のために力を尽くすこととなる。

「内情は酷いものでした。まず香港で起きていることとイギリスで起きていることを切り離すところから始めなければいけませんでしたから」

「当時の予算では、選手1人に払う週給の上限を5,000ポンドに抑える必要がありました。しかしクレイトン・ドナルドソンを獲得した時、彼はチームにとって重要なストライカーでしたから、特別に7,000ポンドの週給で契約しました。そうなると当然他の選手に払える週給は3,000ポンドまでになる。これはとてもプラクティカルな話ですが、実際そうするしかなかったわけです」


13/14シーズン、バーミンガムはチャンピオンシップの土俵際にまで追い込まれた。

22位で迎えた最終節ボルトン戦、78分に2点のビハインドを負った状況から、最後は93分の同点弾で追い付いた。
それは実に甘美で何事にも代え難い瞬間ではあったが、結局は2部残留を手に入れただけに過ぎなかった。だがそれさえも、当時のバーミンガムにとっては、天国と地獄の分かれ目だった。


「フットボールの内容そのものと同じくらい、ボードルームの状況も深刻でした。その特異な状況と当時のダイナミクスを鑑みれば、仮に降格していた場合、どれほどのダメージになったでしょうか」


その後の2年間でクラブの財政基盤も(相対的に)上昇気流に乗せたパヴラキスは、並行して管財人にErnst & Youngを任命した上で、クラブ買収者の公募プロセスを進めていく。

そして2016年10月、前オーナーと同じく香港に本拠を構える “Trillion Trophy Asia(以下、TTA)” へのクラブ売却が完了したのである。
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2016年、暴走

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「火曜日にホームでイプスウィッチを破った次の日のことでした」



当時のキャプテン、ポール・ロビンソンが振り返るのは、チームがある一つの決定により破壊された日のこと。
前日の勝利によってチームは7位、プレイオフ進出を十分に狙える位置にいた。

彼らが絶大な信頼を寄せていた就任3年目の監督、ギャリー・ラウエットは、その日休みを取っていた。


選手たちが試合翌日のルーティーンであるクールダウンのセッションを終えると、全選手にクラブ秘書のジュリア・シェルトンからメッセージが入り、まだ帰宅しないよう指示があった。


「みんなで会議室に行き待っていると、そこに監督が入ってきてこう言いました。『みんな、俺はたった今クビになった。他の誰からでもなく、自分自身の口でこれを伝えられてよかった』」




ここに、章を新たにしたファンとオーナーの反目の歴史が幕を開ける。


この当時、ラウエットはQPRやフルアムといったクラブへの転任を画策し、契約延長のオファーを拒絶していたとされる。
しかしこれが不都合な真実であるにせよ、彼の引き抜きには違約金が必要な状況下で、正式なオファーの動きはまだ出ていなかった。

何よりラウエットは、絶望的な状況から短期間でクラブを立ち直らせた功労者に他ならず、ファンと選手の両方から絶大な人気を誇る監督だった。


青空が戻りかけていたクラブの上空に、再びどす黒い何かが蠢く。


一人残らず落胆した選手たちの下に、新監督としてジャンフランコ・ゾラが着任した。彼は「名前」と「魅力的なフットボール」を求めたTTAのお眼鏡に適う存在だった。

しかし1月の豪勢な補強は全く実らず、リーグ戦22試合2勝の惨憺たる成績は、4月半ばの時点でチームを20位にまで急降下させた。最終的にゾラは本人曰く「自らを解任」し、最後の3試合を前に後を継いだハリー・レドナップが2勝を挙げチームを残留に導いた。


シーズンが終わると、パヴラキスがゾラ任命の責任を問われ、CEOの職を追われた。

そしてその後任となったのが、レン・シャンドン、その人である。

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2017年~ Dong era

広く “Dong” と呼ばれる中国人CEOのレン・シャンドンは、2017年から現在にかけて、バーミンガムファンの憤怒・激情を一身に背負ってきた。


それは他でもなく、彼のCEOとしての仕事ぶり、また多くの元同僚たちが証言する人間性に起因している。

いくつかのキーワードと共にこの男の素性を紹介しよう。

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“He just doesn’t know how to run a football club”

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2017年9月、エランド・ロードのダイレクターズボックスに、一人憤慨するDongの姿があった。リーズ相手に17分で先制点を許したバーミンガムは、4連敗で降格圏に足を突っ込もうとしていた。

そこから1週間経たずして、夏に正式監督となったばかりのハリー・レドナップが解任された。
残されたのはやってきたばかりの14人の新戦力と、その後数年に渡ってクラブを苦しめることになる負の遺産だった。


2017年夏、Dongは就任して初めての移籍市場で、計2,300万ポンド以上にも及ぶ歴史的な散財を行った。
ブレントフォードから主力3人を引き抜いたほか、デイヴィッド・ストックデイルなど実績ある高給の選手を見境なく獲得した。

この補強がピッチ上の結果に結び付くことはなかった。
しかし最大の問題はそれですらない。この馬鹿げたバラまきがきっかけで、2年後、バーミンガムはEFL史上初となるFFP違反での勝ち点剥奪処分を受けることになる。

「赤字は3年合計3,900万ポンド以内に収めなければならない」という基本中の基本とも言うべきEFLのFFPルールでさえ、浮かれ切ったDongの脳内にはなかったのだ。




CEO就任早々の大事件が雄弁に物語るように、Dongはフットボールクラブの経営方法を知らなかった。フットボール界の常識は、彼にとっての大発見である。


ある選手がハムストリングを負傷した時は、様子を見るなりフィジオに対して「なぜこれを予見できなかったのか」と凄んだ。フィジオであれば必ずや選手の怪我を未然に防ぎ、ストップをかけられたはずだと考えていたのだ。

練習場では、ピッチ全体が見渡せる絶好の位置に自身のオフィスを構えた。スタッフや選手が常に「監視下」に置かれることの意味を理解している他の全てのクラブでは、決して真似されることのないであろう施策だ。

しかも彼は部屋の中にカーリングカップのトロフィーを移設したばかりでなく、トップチーム用、U23用、U18用の計3つの戦術ボードを設置した。
監督気取りは留まることを知らず、2020年7月にはクラブ公式が掲載した写真に全身練習着姿のDongが写り込んだ。


当然選手起用にも口を出す。19/20シーズン、起用法への不満を訴えたある選手に対し、監督のペップ・クロテット「自分よりもDongに言ってくれ」と答えたという。

別の元コーチも言う。

「彼(Dong)は通常金曜日に部屋に来て、その週に各スタッフが行った仕事を評価します。彼の言い分に反論することも可能ですが、言い合いになるのは避けられません。メンバー選考に関しては、誰を選ぶかというより、誰かを外せという要求をしてきます。いきなりやってきて、『自分もオーナーもその選手を憎んでいるので、あいつは干せ』と。それはもう、そうなったら使えませんよ」


もっともDong自身も、クラブ運営を行っていく上でフットボール界にさしたる知己を持たないことへの問題意識があったようで、かねてから特定のエージェントと関係を深める傾向があった。

例えばレドナップ就任や2017年夏の大量補強を進言したのはダレン・ディーン(元アーセナル会長デイヴィッド・ディーンの息子)だったし、その後ギャリー・モンク招聘を進言したジェイムズ・フェザーストーンが実質的に補強の実権を握った時期もあった。

ただこの両名とも、結局はそう時間の経たないうちにDongとの関係が破滅的に悪化し、最終的には喧嘩別れの形でクラブを去っている。詳細はこの後の項で述べる。


さらにフェザーストーンと袂を分かった後、コロナ禍が重なりスカウトも一時帰休状態に置かざるを得なくなったDongは、今年2月に「スカウティングはスペインとフランスの会社に外注している」と驚きの事実を明かしている。

スカウトすら雇えないほどのクラブの厳しい財政事情、及び他国2部からの補強を事実上不可能にするBrexit後の新移籍ルールを照らし合わせた場合に、この発言がより一層のインパクトを持つことは論を俟たない。



それ以外にも、20/21シーズンに勃発した騒動だけですら挙げていくとキリがないが、ここでは最後に2つの重要な問題に言及して次のチャプターに移る。

この2つは言うまでもなく、アカデミー解散騒動ウィメンズチームからの告発事件である。


昨年12月、“Athletic” によるスクープに反応する形で突如公式発表された「アカデミー解散、Bチームモデルへの移行」の一報は、ファンのみならずクラブ内部をも震撼させた。
半年後の職を奪われたスタッフは例外なくショックを受け、トップチームでの未来を奪われた選手たちや両親の中には、涙を流した者も少なくなかったという。

さらに驚くべきは、その最初の発表から1日と経たないうちに、「8~16歳のカテゴリは存続させる」という当初の方針を180°Uターンさせた声明が出されたことだ。
これを行き当たりばったりと言わずして、何を言うのだろうか。


詳しい考察をするまでもなく、Dongの掲げたBチーム構想が流行りに乗っただけのカジュアルなものであったことは明らかだ。

クラブは「ビッグクラブがスカウト網を伸ばす中で、人材の確保が困難になってきた」ことを戦略転換の主要因として挙げた。
しかし近年目立つところでもネイサン・レドモンドディマレイ・グレイ、そしてジュード・ベリンガムを輩出したアカデミーは依然ウェストミッドランズ地方随一のプレゼンスを誇っており、発表時点でさえカテゴリー1ステイタスへの昇格を申請中だった。状況・実績共に、激戦区ロンドンに居を構えるブレントフォードとは訳が違う。

一説には、それまで盟友関係だったとされながら疎遠になり、10月にサンダランドへ去った元アカデミー責任者のクリスチャン・スピークマン(アカデミーのカテゴリー1昇格を悲願としていた)への当てつけだったのではないかとする向きもある。

ただその真意が何であるにせよ、それまで事あるごとにアカデミーの重要性を強調し、家族ぐるみでのクラブとの特別な関係を持つベリンガムの売却益によって文字通りクラブが生き永らえた(だから彼の背番号は永久欠番になった)直後のシーズンでのこの動きは、まさしくDongという男の短絡的な思考を象徴している。


結局組織構造は何一つ変わらず、先日無事カテゴリー1への昇格も認められたバーミンガムのアカデミーだが、この騒動でクラブに不信感を覚えた多くの選手たちが移籍を検討中だと報じられている。

既にイングランドU15代表のカラム・スカンロンが冬にリヴァプールに移ったほか、地元ライバルのアストンヴィラやウォルヴズも複数選手に熱心なアプローチをかけているとされる。この件でクラブが負ったレピュテーショナルダメージは計り知れないものだ。




そして今年4月に勃発したのがウィメンズチームの問題だ。“Telegraph” によって開示された選手からクラブへの待遇改善を訴える請願書は、女子フットボールにようやく日の目が当てられようとしている現代にあって、完全に悪い意味での驚きをもって世間に受け止められた。


ホームアウェイ問わずホテルへの前泊は許されず、怪我をしても入れるのはおんぼろな医務室だけ。
ほぼ全員がパートタイマーのコーチングスタッフはWSL規定にも違反するところで、1月のトッテナム戦では必要な数の選手を揃えることすらできず、不戦敗となった。

その中でも奮闘を見せ、一度は残留を決めた選手たちを最終節前に襲ったのは、「出場資格のない選手を起用した」ことに伴う勝ち点1の剥奪処分だった。
控えメンバーがGK1人のみだった最終戦、彼女らは何とか2度目の残留を勝ち取った。来季以降の未来は神のみぞが知るところだ。


過去数年間に渡り、バーミンガムはイングランド女子リーグを代表する強豪だった。彼女らがあまりにも過酷な残留争いを強いられたのは、他のチームが女子部門の強化に力を入れたからではない。

「自らの失態に端を発するコストカットのことしか頭にない、かつ男女同権意識にも著しく欠けたCEOがいたから」に他ならないのだ。

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“Arrogance”

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「働く環境としては最悪でした。誰もDongにアドバイスすることはできません。彼は誰のどんな意見にも耳を貸していないようでしたからね」
(元側近)


「彼はアグレッシヴで、怒鳴ることもしばしばでした。みんな恐れていましたし、それは多分普通の人が想像できないほどです。彼と意見が対立した後、涙を流している人を何人も見てきました」

「彼はとてもハードワーカーです。いつ寝ているんだと思うくらいですし、上にいるボスに対してもとても忠実です。情熱も持っていますし、例えば風水の話をしている時などは魅力的で興味深い存在でもあります。ただ典型的な “knee-jerk reaction” なんです。もし少しでも異を唱えれば、即座に粛清されるわけです」(別の元同僚)


彼の性格を物語るこの2つの証言を聞いてなお、Dongと共に働くことを望む人はよっぽどの変わり者だ。

上記は匿名の証言ではあるが、これらの評を裏付ける要素として、Dongの在任中には長年バーミンガムへの忠誠を尽くしてきた何人もの人々がクラブを去っている。


いずれも十数年以上のクラブ在籍歴を誇ったジュリア・シェルトン、CFOのロジャー・ロイドらが含まれていた2019年1月の大量離職事件をはじめとして、長年アカデミーを支えた名コーチのリチャード・ビール、バーミンガムメールの記者から広報に転身しファンに親しまれたコリン・タッタムらは、いずれもDongとの対立を理由にクラブを去った。

そして現役引退後はU18チームのコーチを務めていた元キャプテンのポール・ロビンソンも、Dongとの対立がきっかけで退団を余儀なくされた一人だ。


「私は常にプロフェッショナルな姿勢で仕事をしたいと思っていましたが、周りでは様々なことが起きていました。プロフェッショナリズムとは何かを学ぶいい機会でしたし、それが守られない環境では働きたくないと改めて実感することもできました。それは本当に基本的なことで、例えば全員に敬意を持って接するとか、会ったら挨拶をするとか、スタッフ全員とコミュニケーションを取るとか、そういったことが私にとっては重要なんです。クラブで働く人やスタジアムに来る人とのリレーションシップを築かなければなりません。皆バーミンガム・シティFCに関わっているわけですから」


2019年3月のミルウォール戦では、試合中にダイレクターズボックスからグラスが割れる音と怒声が響き渡った。昨年12月のカーディフ戦では、審判に対して過度な暴言を浴びせたとして、FAから罰金処分を科された。
Dongのこれらの立ち振る舞いからは、品位も敬意も一片たりとも感じ取ることはできない。



また彼の頑固で自らの非を認めない性格は、数多もの失敗を重ねてきた監督人事に凝縮されている。

端的に言えば、自らの意向で連れてきた人材にはとことん甘く、その上空(主にザオ・ウェンキン会長)の意思決定によりやってきた人材には努めて批判的なのだ。


例えばファンからの非難轟々に耐えかねて自らクラブを去ったスティーヴ・コットリルペップ・クロテットは、いずれもDongの決定により監督に登用された経緯があった。

一方でハリー・レドナップは彼主導の人事ではなかったし、レドナップ、コットリル後の荒廃した状況を立て直し、勝ち点剥奪のシーズンを耐えきったギャリー・モンクは、ファンからの絶大な支持にも関わらず親友のフェザーストーン(モンク就任をザオ会長にプレゼンした)共々Dongと正面から対立し、18/19シーズン後に解任された。


その最たる例が20/21シーズンのアイトール・カランカ解任の顛末だ。

カランカはDong主導の人事と言われており(2年前にもアプローチしていた)、就任会見では高らかに彼の指揮の下での「3年計画」を宣言し、SNSでも頻繁に彼との仲睦まじげな様子を投稿していた。

その期待とは裏腹に、過度に保守的な戦いを続けたチームは冬場にかけて自信を失っていき、とにかく点が取れなくなってしまった。
年明け後には遂に降格圏に突入し、つまらない試合とあまりに魅力のないキャラクターも相まって、ファンの間からは解任待望論が上がるようになった。


しかし当然の如く、Dongは動かなかった。

事態が進展したのは3月のこと。数週間ほどイギリス滞在を続け状況を確認したウェンキン会長が自ら動き、ホームでブリストル・シティに0-3で敗れた3月13日の試合後に選手数名を呼び出し、彼らの意見を聞いた上でカランカの解任を決定した。

翌日、選手とスタッフは試合翌日のセッションのために練習場を訪れた。その日はDongの誕生日で、午後には練習場で彼の誕生日パーティーが行われることになっていた。

パーティーは選手スタッフ全員出席の下、盛大に執り行われた。当然カランカも出席した。
驚くべきことに彼は、午前中に既に解任決定の事実を通達されていたという。しかし選手たちへの通達がまだだったため、カランカは解任を知らされた状態で、会への出席を強いられていたというのだ。


それほどまでに混乱したクラブ内の指揮系統の中、13日夜の段階で「カランカが首になることはない」と吹聴していたというDongは後任監督の選定プロセスから外された。


そうして就任したリー・ボウヤーの初陣の前、Dongは周囲に「今シーズンはもう二度と勝つことはない」と話し、まず今夜は0-3で負けると自信満々にスコア予想を語った。

当時PO圏のレディングに対し、彼が忌み嫌う4-4-2のフォーメーションで戦ったバーミンガムは、カランカが冷遇したルーカス・ユーコヴィッチの活躍もあり2-1で勝利を収めた。

Skyの中継カメラが捉えたDongの表情は、勝利チームの関係者とは思えないほどに苦渋に満ちていた。
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“Habitual offender”

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ここまで記してきたのはDongのCEOとしての能力、また個人としての資質に関する話だ。

それだけであればまだよかった。ここから紹介するのは、クラブの私物化疑惑、そして過去に彼に対して提起された刑事訴訟についての話題である。


バーミンガムの財務諸表を見ると、2018年から2019年(FFPルール抵触の時期と重なっている)にかけて、Dongと目される最高給のダイレクターの月給が16万6000ポンドから30万1000ポンドに倍近く上昇していることがわかる。
加えてこの期の諸表には、クラブからDongに対する4万6000ポンドのローンも記録されており、現在に至るまで返済された記録はない。

この使い道について、ダニエル・アイヴリーと数々のインサイダー情報を出し抜いてきた有志グループ “We Are Birmingham” による抗議団体 “1875” の情報によれば、Dongはクラブのクレジットカードを使い妻へのプレゼント用にグッチのハンドバッグを購入したとされる。

また “Athletic” によれば、クリスマスパーティーなど大人数が集まる場所でDongはボディガードを引き連れており、その賃金がクラブの口座から出されていたとの証言も複数の関係筋から寄せられているという。




そもそも英国国内でさえ多数のCCJ(州裁判所による未払いの債務判決書)を抱え、銀行や企業からのクラブの信用レートを下げる一翼を担っているDongだが、アイヴリーの調査によって母国中国でも同様の訴状を抱えていることが判明している。


バーミンガムのCEOに就任する前、Dongは “Winning League” という中国が国策として取り組んでいた選手育成プロジェクトの要職に就いていた。

このプロジェクトではポルトガルから多くの指導者を招き入れており、その顔としてDongが招聘したのがあのルイス・フィーゴだった。
実際にバーミンガムのCEOとして代理人との交渉にあたる際も、Dongはフィーゴとの交友関係を強調し、自身の立場を強めようとすることがあったという。

このプロジェクトに参加したコーチの一人、マリオ・ペレイラが給与未払いを訴えるLinkedInの投稿をアイヴリーが発見したのは、2017年11月のことだった。
“Athletic” はこの情報についての裏取りを行い、匿名を条件としながらも他複数のコーチから、これが真実である旨を確認したという。


2021年現在、この件に関連してコーチ陣やフィーゴ本人(肖像権の問題)から出されたものを含め、Dongは中国国内で14件もの裁判所命令を抱えている。

独自の社会信用システムを持つ中国において、この処分が意味するところは、Dongは基本的な人権を持たない状態に置かれているということだ。飛行機の利用禁止、電車での一等席使用不可、子どもを私立学校に通わせることができないなど、日常生活に多くの制限を課されることになる。

しかしながら当然、これはDongが中国に住んでいた場合の話だ。彼はバーミンガム・シティのCEOでいる限り、イギリスに滞在し続けることができる。

彼が執拗に結果を追い求め、堪え性のない行動を繰り返す理由の一つが、ここにある。

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To Be Continue…

ここまで読み進めてきた方は、必然的に次のような疑問を抱いているだろう。



「なぜDongはCEOの座を追われないのか?」

「なぜ現在のオーナーグループについての話が出てきていないのか?」



そう、まだこの記事は本題に入っていないのだ。
前提を説明するだけでもここまでの分量になってしまったため、所有権問題については編を改めて執筆することとしよう。



次に紹介するのは、この上なく入り組んだ利権問題と、大きな闇を抱える “Spaghetti junction” だ。

後編に続く)

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