タイトル
“We cannot be another Bury FC” バーミンガム・シティ、混迷の10年と未知なる明日への物語
2021年、コロナ禍の続くセント・アンドリュース・トリリオントロフィーアジア・スタジアムに、カットボードが侘しく佇む。
そこにファンはいない。そこには信頼関係もない。
10年前、1875年から紡がれる歴史の中でも史上最高の瞬間を経験した彼らは、今や空中分解寸前の状態に陥っている。遥か極東の地から空輸された混乱とアンプロフェッショナリズムは、バーミンガムの地に根付く青く偉大な文化に、史上最大の汚点を現在形で残し続けている。
20/21シーズン、過去8年間で6度目となる残留争いの救世主となったのは、クラブの危機に舞い戻った10年前のヒーローだった。
その男、リー・ボウヤーの存在は、荒廃したクラブ内部とファンベースとの関係に一筋の光をもたらした。
しかし、それがなかったとすれば…。
今ここに書き記すのは、一つの偉大なフットボールクラブとその転落の物語。
どうかいつの日か、今過ごすこの日常を過去の笑い話として語れる日が訪れるように。
そんな特別な願いを込めて。
2011年、転落の始まり
初めのページに行く最高の瞬間、そして転落の始まり2011年2月 ウェンブリー・スタジアム
その日、聖地ウェンブリーに姿を現したアーセナルの選手たちは、揃いも揃って格式高いスーツに身を包んでいた。
彼らの頭の中は、試合後の優勝チームインタビューのことで埋め尽くされているように見えた。
時のバーミンガム主将、スティーヴン・カーは、胸の奥から湧き出る闘志の鼓動を感じた。
アーセナルはその年2度の対戦でいずれもバーミンガムを寄せ付けず、当時首位のマンチェスターUからわずか4ポイント差の2位。誰もが勝敗予想を時間の無駄と切り捨てた。
「おい、連中は今日スーツでここに来やがった。奴らは散歩にでも来たつもりだぞ」
ドレッシングルームでのカーの言葉に、バーミンガムの選手たちは一人残らず燃え上がった。
2011年2月27日、10/11シーズンのカーリングカップ決勝戦。146年の歴史を持つバーミンガム・シティが、史上最高の興奮をその身に刻んだ日。
進むべき道は決まっていた。開始1分からベン・フォスターはボールをひたすらに高く蹴り上げた。
201cmのニコラ・ジギッチのヘッドが先制点を生んだ。同点に追い付いたアーセナルは幾度となく持ち味のパスワークを披露し、フォスターが守るゴールに迫った。耐え凌いだ。
89分、勝利の女神がそのエフォートに微笑む。1月にルビン・カザンからローンで加入したオバフェミ・マルティンスは、彼のキャリア史上最も簡単で、最も重要な一撃を、無人のゴールに流し込んだ。
アーセナル 1-2 バーミンガム。
1963年以来48年ぶり、クラブ史上2つ目となるメジャータイトル獲得だった。
その日を境に、彼らの運命は変わった。
多くのファンが思い描いていた未来は、訪れなかった。
2014年、香港にて
「闇の美容師」、全ての元凶 2014年3月 香港特別行政区区域法院
「闇の美容師」、全ての元凶 2014年3月 香港特別行政区区域法院
それまで単なるパートタイム労働者だった彼は、プレミアリーグ降格後に持ち上がったユンのマネーロンダリング疑惑とそれに伴うクラブの財政悪化に危機感を覚え、イギリスと香港を行き来し事件の最新情報をファンに届ける情報源となっていた。
「正義とはかけ離れた何かが起こっていることは明らかでしたし、それはお金の問題であることも確かでした。『この人は見せかけほど金持ちではないぞ』と確信していました」
ユンは香港中の富豪をクライアントに持つ美容師で、株取引やメインランドでの美容サロン・ギャンブル企業運営により多額の富を得たと主張していた。
アイヴリーは手始めに、情報収集を行うために現地香港の報道をGoogle翻訳を使って読み漁り、同時に会計の勉強を始めた。
「言葉と文化の違いが最大の障壁でした。今では少し中国語を喋れるようにさえなりましたし、その勉強抜きに事態を把握することはできませんでした」
「記事が注目を集めるにつれ、様々な連絡が来るようになりました。あるユンの裁判の前、クラブ内の不満を持ったダイレクターから電話があり、香港に行くための費用を援助してくれたこともあったほどです」
「多くの人々が彼がなぜ逮捕されたのか、何が裁判の争点なのかを理解できていませんでしたから、私が実際に現地に赴き法曹関係の人々、会計士、メディアと話すことによって、そこで聞いたことをファンに説明することができました。最終的にユン本人に会うこともできました。彼は何とも愛想が良く、フレンドリーな人物でしたね」
有罪判決を受けた後もユンはクラブ内での地位に留まり続けた。
必然的に資金繰りはストップし、12/13シーズンから指揮を執っていたリー・クラークは、靴ひも程度の予算による戦いを強いられることになる。
2016年、暴走
初めのページに行く 初めのページに行く乱された安穏、始まった暴走2016年12月 ワスト・ヒルズ(練習場)
「火曜日にホームでイプスウィッチを破った次の日のことでした」
当時のキャプテン、ポール・ロビンソンが振り返るのは、チームがある一つの決定により破壊された日のこと。
前日の勝利によってチームは7位、プレイオフ進出を十分に狙える位置にいた。
彼らが絶大な信頼を寄せていた就任3年目の監督、ギャリー・ラウエットは、その日休みを取っていた。
選手たちが試合翌日のルーティーンであるクールダウンのセッションを終えると、全選手にクラブ秘書のジュリア・シェルトンからメッセージが入り、まだ帰宅しないよう指示があった。
「みんなで会議室に行き待っていると、そこに監督が入ってきてこう言いました。『みんな、俺はたった今クビになった。他の誰からでもなく、自分自身の口でこれを伝えられてよかった』」
ここに、章を新たにしたファンとオーナーの反目の歴史が幕を開ける。
この当時、ラウエットはQPRやフルアムといったクラブへの転任を画策し、契約延長のオファーを拒絶していたとされる。
しかしこれが不都合な真実であるにせよ、彼の引き抜きには違約金が必要な状況下で、正式なオファーの動きはまだ出ていなかった。
何よりラウエットは、絶望的な状況から短期間でクラブを立ち直らせた功労者に他ならず、ファンと選手の両方から絶大な人気を誇る監督だった。
青空が戻りかけていたクラブの上空に、再びどす黒い何かが蠢く。
一人残らず落胆した選手たちの下に、新監督としてジャンフランコ・ゾラが着任した。彼は「名前」と「魅力的なフットボール」を求めたTTAのお眼鏡に適う存在だった。
しかし1月の豪勢な補強は全く実らず、リーグ戦22試合2勝の惨憺たる成績は、4月半ばの時点でチームを20位にまで急降下させた。最終的にゾラは本人曰く「自らを解任」し、最後の3試合を前に後を継いだハリー・レドナップが2勝を挙げチームを残留に導いた。
シーズンが終わると、パヴラキスがゾラ任命の責任を問われ、CEOの職を追われた。
そしてその後任となったのが、レン・シャンドン、その人である。
2017年~ Dong era
独裁者の無知と悪行、そして強大な力2017年~ バーミンガム
それは他でもなく、彼のCEOとしての仕事ぶり、また多くの元同僚たちが証言する人間性に起因している。
いくつかのキーワードと共にこの男の素性を紹介しよう。